香川県高松市の小児科・アレルギー科・小児循環器内科 医療法人社団裕心会 あきた小児科クリニック

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心臓病の子ども達と共に

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5.『コード・ブルー』

関東に近い南東北地方とはいえ、福島県郡山の春は遅い。昭和時代最後となった春から秋への6ヶ月を、僕はその郡山市で過ごした。東京の研修病院から関連病院への短期出向であった。東京代々木、仙台、そして郡山の3ヶ所にある循環器専門病院のうちのどこかを、研修医が研修2年目に半年間ずつ交代で手伝うことになっていたからだ。

徳島の片田舎から東京へ心臓病の研修に来て約半年が過ぎた12月のある日、誰がいつどの関連病院へ出向するかを相談することになった。循環器小児科の8人の同期生のうち唯一の女医さんは出産のために休職することになり、1人は1年間だけの研修予定だったので出向が免除された。残りの6人で分担を決めるのであるが、妻子持ちが1人いたので彼は優先的に引っ越しをしなくてよい代々木の病院に決まった。1番人気は近くに観光地の多い郡山で、予想通り前期の郡山への希望が重複してしまい抽選となった。抽選といってもジャンケンであったが、一生で1番緊張したジャンケンでもあった。そうして僕は運良く第1希望の前期の郡山が当たったのである。

初めて郡山駅に降り立った3月末はあたり一面が真っ白であったし、5月の声を聞いても磐梯吾妻方面はまだ雪景色であった。赴任先の病院は地方病院とはいっても循環器疾患専門であり、内科医が4名、心臓外科医が4名いたが、小児科医は僕1人であった。勤務初日、病棟には国方君という心室中隔欠損手術後の16歳の少年をはじめ、総肺静脈還流異常術後、ファロー四徴症術後、大動脈縮窄術後など前担当医から引き継いだ多くの患児がいた。さらに、勤務開始3日目に重症心室中隔欠損の乳児が紹介されてきたのを皮切りに、完全大血管転換の赤ちゃん、肺動脈閉鎖を伴ったファロー四徴症や総肺静脈還流異常の乳児など重症児がドンドン入院してきた。聞いていた話とは多少違って重い病気の患児が多く、想像以上に忙しい勤務であった。

しかし、それ以上に戸惑ったのは病院当直の夜であった。これまでの病院の当直では主に小児科の患者を中心に診ているだけでよかったが、ここの当直で診察するのは内科の救急患者、すなわち大人がほとんどであったからだ。以前高知の病院に短期間勤務していた時やアルバイト当直などで大人の患者を診る機会も結構あったが、これらは一般病院だったので腹痛や頭痛、風邪といったポピュラーな病気がほとんどであったため比較的楽であった。ところがこの病院は循環器疾患専門なのである。夜間に救急車などで運び込まれる患者の中には、心筋梗塞や狭心症など緊急処置が必要な循環器疾患が含まれているのである。これは恐い!小児科医としてはこうした救急患者を診察しなければいけないというのは本当に恐い(成人の循環器疾患の経験が少ない小児科医に診察される救急患者はもっと恐いだろうが)。ただし、病院側で借りてくれているマンションがすぐ近くにあったので、連絡をすれば内科医が直ちに駆けつけてくれる体制が整備されていた。そのため、小児科医としては循環器疾患が疑わしいか否かを判断すればよかったし、他院からの紹介などで明らかに狭心症や心筋梗塞と判っている場合は最初から内科医が診察や処置をしてくれることもあった。

ある日、1人の心臓外科医と一緒に昼食をとっていると、『コード・ブルー、コード・ブルー』という院内放送が聞こえた。そうすると、なぜか彼は注文した食事を置きっぱなしにしたままで、いきなりICUの方へ駆け出していった。何が起こったのかよくわからなかったが、僕も食べ始めたばかりの弁当を食堂に置いたまま彼の後を追った。ICUに行ってみると、PTCA後の患者が急変したらしく1人の内科医が慌ただしく処置をしているところであった。僕も言われるままに、いくつかの処置や注射の手伝いをした。こうした緊急処置の際に必要なのは1人のしっかりしたリーダーとできるだけ多くの人手であり、集まった職員の援助もあって患者の状態は再び安定した。後で知ったところによると、この病院ではICU患者が急変したり重症救急患者がICUに運び込まれたりして人手が必要な時には、例の『コード・ブルー』放送をして手の空いている医師を召集するとのことであった。「そんな大事なことは赴任してきた時にあらかじめ説明しておいて欲しいな」とも思ったが、その後も何度かこうして『コード・ブルー』に呼び出されて成人患者の処置に付き合った。おかげで心筋梗塞などの循環器疾患をはじめ、大人の重症喘息発作や急性腹症などを診る機会に多く恵まれ、PTCAなどのカテーテル治療や呼吸管理のお手伝いもさせてもらった。このことはその後の自分の診療にも大いに役だっている。

ただ一つ、この『コード・ブルー』で哀しい思い出がある。それは麻衣ちゃんという1歳のかわいい女の子のことである。麻衣ちゃんは生まれた時から心雑音があり、不完全型房室中隔欠損との診断で強心剤と利尿剤を飲みながら実家近くの病院で経過観察されていて、その年の春に郡山に引っ越してきたため、我々の病院に紹介されてきた。心エコーの結果は不完全型ではなく完全型房室中隔欠損と思われ、房室弁の逆流の程度も強く、高度の肺高血圧症も認められた。すぐに心臓カテーテル検査を行ったのだが、肺動脈圧(右室圧)は大動脈圧(左室圧)に等しく、酸素や血管拡張剤を使ってもほとんど低下しなかったため、完全型房室中隔欠損に伴うアイゼンメンジャー症候群と思われた。既に手術が危険すぎるレベルまで肺高血圧症が進行してしまっていたのだった。2人の心臓外科医と僕との3人でご両親に検査結果を説明し、手術は非常に危険な状態であるために勧められないこと、そして手術せずに利尿剤や血管拡張剤などで内科的に治療していくのが一般的な治療方針であることなどをお話した。しかし、ご両親は「2、3%でも生還の可能性があるならば手術にかけてみたい」と、手術を強く希望された。その後も数回にわたって同様の話し合いが続けられたが、最終的にはご両親の強い希望に折れる形で手術が選択された。

数日後、手術が行われた。手術そのものはスムーズに終了し、人工心肺からの離脱も順調で夕方にはICUに戻ってきてくれた。筋弛緩剤や鎮静剤、血管拡張剤、高濃度酸素などを使用すると共に、血圧の変動を抑え、気管内吸引などでもなるべく患児を刺激しないように注意しながら懸命の治療を続けた。心臓外科医だけでなく小児科医ももちろん泊まり込んで麻衣ちゃんの治療に当たった。肺動脈にカテーテルを入れて肺動脈圧のモニターを行っていたが大動脈圧の70%程度にまで低下しており、術前の状態を考えれば予想以上に経過良好であった。この時点ではご両親の英断は正解だったかに思えた。しかし、手術翌日の夕方、『コード・ブルー』の放送が流れた。この病院に来てから数度目の、そしてもっとも哀しい『コード・ブルー』であった。小児科外来を中断してICUにとんでいくと、心臓外科医が麻衣ちゃんの心臓マッサージをしていた。PHクライシスのために突然の徐脈と血圧低下が起こったのだった。それから数時間後、麻衣ちゃんはご両親のもとから旅立っていかれた。・・・・・ご両親の強い希望と決断、そして迷いながらもご両親の納得がいく方向で決めた我々の治療方針、それが正しかったのか間違っていたのか、その答はどこにあるのだろう。手術結果のことだけでいえば「否」である。しかし、正解はどこにあるのだろう。もし麻衣ちゃんがご両親や我々に返事できたとしたら何と言っただろう。あの時以来ずっと考え続けていることであるが、僕はまだその答を出せないままでいる。この先、僕が医師を続けていく限り、本当の答というものを求め続けていくことだろう。今でも哀しい思い出と共に、麻衣ちゃんの若いご両親の必死な眼差しが浮かんでくる。

僕はその年の9月末に郡山から再び東京に戻ったのであるが、郡山を出発する日、駅の新幹線プラットホームには初対面以来兄貴のように慕ってくれるようになった国方君の姿があった。哀しい想いを引きずりながらも、国方君のような子どもたちがいてくれるからこそ僕たちも頑張っていけるのだろう。高校卒業後、国方君はレントゲン技師を目指して東京の専門学校に進学した。

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