香川県高松市の小児科・アレルギー科・小児循環器内科 医療法人社団裕心会 あきた小児科クリニック

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心臓病の子ども達と共に

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4.救急病院24時

病院の朝は早い。とくに老人の多い内科病棟などでは、午前5時前から起き出して雑誌を見たり雑談したりしている姿をよく見かける。早番の給食係や病院の清掃専門会社の人たちにとっては仕事の真っ最中でもある。まだ夜も明けきらないそんな時間、僕は病院の廊下を心臓外科のICUへ向かって急いでいた。僕が担当していた赤ちゃんが昨日夕方から緊急手術になったため、手術に付き添い、そのまま泊まり込んでいたのだ。この赤ちゃんは混合型総肺静脈還流異常といって、完全大血管転換と並んで新生児のうちに症状が出現する重症のチアノーゼ性先天性心疾患であった。混合型の総肺静脈還流異常は総肺静脈還流異常のなかでも正確な診断が難しく、手術成績も他のタイプに比べてあまり良くない。この赤ちゃんも緊急入院した翌日に総肺静脈還流異常では通常やらない心臓カテーテル検査を行い、肺静脈の異常流入個所を見きわめた後、夕方5時過ぎに手術室に入っていった。それでも日付が変わらないうちにICUに戻ってきており、手術後の状態も安定していた。

当時、僕が勤務していた病院は私立大学に併設された循環器疾患専門施設であり、この分野では日本のトップレベルであった。そのため、日本全国から多種多彩な疾患の患者が検査や手術目的で毎日紹介されてきた。この施設には内科、外科、小児科の3つの科があったが、それぞれ循環器内科、循環器外科と循環器小児外科、そして循環器小児科と呼ばれており、北は旭川、南は沖縄まで、各地の大学から僕のような循環器専門医を目指す若い医師が多数研修に来ていた。僕が在籍していた循環器小児科にも毎年7、8名の医師が1年から3年ぐらいの予定で勉強に来ていた。患者さんも医師もバラエティに富んでいたのでいろいろな日本語の勉強にもなったが、いつまで経っても阿波弁が抜けない僕の話は1度で通じないことが多くて苦労した。ところで病院には当直業務が付きものであるが、循環器小児科では一般病棟と小児科ICUの2人の当直医がいた。また重症患者がいる医師も泊まり込むことが多く、これを重症当直と呼んでいた。結局、あれこれ合わせるとかなりの夜を病院で過ごしていた。そのため当直室の他にも小児科病棟の奥に医師待機室があったし、それとは別に外科や内科と共同の仮眠室として大部屋も用意されていた。もちろん快適からはほど遠い部屋ではあったが、外科医などは手術患者が安定するまで心臓外科のICUでへばりついていなければならなかったので、仮眠できる小児科医が文句を言える立場ではなかった。

話を元に戻すと、午前5時過ぎにその男くさい仮眠室の汗くさい毛布から抜け出した僕は、総肺静脈還流異常の手術後の赤ちゃんを覗きに心臓外科ICUへ入っていった。「今のところ落ち着いてるよ。血圧も安定してるし、ハルン(尿)もよく出てるよ」付き添っていた同期生の若い外科医が、流ちょうな東京弁で教えてくれた。こうした深夜労働や重症当直で患者のすぐ横で待機しているのは通常もっとも若い医師や経験の未熟な医師の仕事である。仕事といっても何かあれば指導医に指示をもらい、検査用の血液を採ったり、それを持って検査室まで走っていったり、レントゲン写真を撮ったりする雑用が主な任務であった。こうして一晩中赤ちゃんにへばりついていたこの外科医も、今日もまた次の手術での雑用がドッサリ待っているはずであった。給料を含めたわれわれ研修医の待遇は悪く、肉体的にも非常に厳しい日々であった。それが嫌ならこの施設を辞して自分の大学に戻るしかないのだが、みんなそれぞれの目的を持って研修に来ていたので不平や不満はほとんど聞かれなかった。

ICUを出た僕は1階の自動販売機でカップラーメンを買い、その近くにあった医局へ入って行った。医局といっても少しの机と代表電話、それにたくさんのレターボックスがあるだけで、単なる連絡場所という立場の医局であった。レターボックスは数多くあったがそれよりも医師数の方がはるかに多いので、上級医師以外は2人で1つのボックスを使っていた。2階にあった医師室の着替え用のロッカーは2人に1個しか与えられなかったし、机に至っては循環器小児科の研修医8人全員で1つであった。それでも、病院に泊まり込む日が多いのでロッカーは1日1回使えばいいほうだし、医師室の机の前に座る時間などなかったのでまったく問題はなかった。

それはさておき、その狭い医局でカップラーメンをすすりながら、僕は今日1日のスケジュールを思い起こしていた。今日は朝7時からいつも通りの講義があって、8時からはカテーテルカンファレンス、午前中はファロー四徴症のカテーテル検査があって、午後は久しぶりのフリーだからのんびりさせてもらって今晩の小児科当直に備えよう・・・・・。一口にカテーテル検査といっても、その日の検査は僕にとって特別の意味があった。この病院へ研修にきて、初めてメインでカテーテル検査をやらせてもらえることになっていたからだ。難しい患児や複雑な病気の場合は必ず筆頭指導医が検査していたが、ファロー四徴症や心室中隔欠損(単純な心室中隔欠損はここではめったにいなかったが)などの場合は、われわれ研修医にもチャンスがまわってくることがあった。カテーテル検査は元いた大学で何度も経験はあったが、ここでやる検査にはまた別の重みがあるように感じられた。しかも、カテーテルプランといってどんなサイズのカテーテルをどこから入れて、どこをどう進めてどこで血圧や血液ガスを測って、どこで造影剤を流して造影して・・・・・こうした綿密なプランを朝のカンファレンスで発表して、手術に向けての検査漏れや手違いがないように注意するのである。そこには、大学時代とは比べものにはならないほどの緊張感があった。

朝のカンファレンスの後で病棟医長から「今日は午後からテレビの取材が入るから」という話があった。僕の頭の中はファロー四徴症のカテーテル検査のことでいっぱいだったのであまりよく聞いていなかったが、なんでもこの病院の近くにあるテレビ局が「救急病院24時」とかいうテーマで特集番組を作るらしかった。カンファレンスの後、早めに回診を済ませてカテーテル検査室へ急いだ。しっかりとしたプランのおかげか、指導医の指導の賜物か、あるいは僕の運なのかよくわからないが、その病院での初めてのカテーテル検査は無事に完璧に終了した。満足した気分のまま売店で昼食用にシャケ弁当を買い、2段ベッドが二つ入っている小児科医師待機室でベッドを椅子替わりに弁当を食べていると、いきなりドアが開いて病棟医長の面長な顔が覗いた。「明日来るはずだった鹿児島のTGA(完全大血管転換のこと)のベビーが、向こうの医者の都合で急に今日来ることになってもう出発するらしいから、誰か空港まで迎えに行ってきてくれ。」そこで午後がフリーだった僕が行くことになった。

この施設へは日本全国から先天性心疾患の患児が送られてくるため、こうしたお迎えは日常茶飯事であり、行き先も上野駅、東京駅、羽田空港などさまざまであった(この頃はまだ東北新幹線は上野駅までであった)。テレビでよくやっている医療ドラマのカッコいい主人公にでもなった気分で救急車に乗り込み、羽田空港へ向けて出発!東京のドライバーのマナーは僕の田舎よりはるかに良く、救急車が近づくとキチンと避けてくれる。おかげで飛行機の到着予定より30分以上も前に着いてしまった。こうした病児のお迎えの際には羽田空港側もいろいろと配慮してくれて、一般の出入口ではなく特別出入口の使用が許された。上野駅でも地下の東北新幹線乗り場から地上までは特別のエレベーターを使わせてくれたりした。その特別出入口の近くでしばらく待っていると鹿児島便が到着したが、簡易保育器に入って長旅をしてきた割に赤ちゃんは元気であった。紹介してくれた医師から紹介状、レントゲンフィルムや心エコーのコピーなどをもらった後、再び病院に向けて出発。この時になって、僕の頭の中に今朝の病棟医長の言葉が甦ってきた。「テレビ局の取材」である。うまくいけば、救急車で到着する場面を撮ってくれるかもしれない、そうすればテレビに映るし、田舎の両親にも何よりのクリスマスプレゼントになるし・・・・・。こうなると、もう完全なミーハーである。30分ほど走って救急車が病院の敷地に入っていくと、予想通り1台のテレビカメラが寄ってきた。僕はよそいきの顔で赤ちゃんを救急車から降ろし、カメラの位置をさりげなく確認しながら病棟へ急いだ。さすがにカメラ目線をするだけの勇気はなかった。

その夜の僕の当直は大忙しであった。房室中隔欠損の手術後の3歳の男の子の発熱に始まって、フォンタン型手術待機中の三尖弁閉鎖の女の子の腹痛、大動脈縮窄手術後の男児の嘔吐下痢症・・・少し落ち着いた頃には午後11時を廻っていた。職員食堂はもうとっくの昔に閉まっていたので、今朝と同様にまたまた1階のカップラーメンのお世話になった。今週になって何回目になるのだろうか、さすがにこの味にも飽きてきてしまったので、この時はいつもは食べないカレー味にした。

当直室に戻り、もう何もないだろうと思ってウツラウツラしていた午前2時頃、当直室の電話が鳴った。一般病棟に入院中の心室中隔欠損、心房中隔欠損、動脈管開存を伴った子どもの呼吸がおかしいというのである。この1歳男児は肺高血圧症が強く、一時は小児科ICUで人工呼吸器を使って呼吸管理していたのだが、血管拡張剤などの治療が奏功して状態が落ち着いたため呼吸器を外し、数日前に一般病棟へ出ていたのだ。そういえば、担当医が申し送りで少し熱があるって言ってたっけ。病室に入ると、深夜勤務の看護師が酸素を口元に流しながら、チューブで痰を取る処置(吸引)をしていた。男の子はあえぎ呼吸をしており、顔色も悪く、手足は冷たく湿っていた。「プルス(脈拍)は変わりありませんが、ドゥリュック(血圧)が少し下がってます。末梢もしまってきています」看護師が的確に応えた。「ジャクソンリースと酸素チューブ!そっちは挿管の準備もしてて!」下顎を引き上げながらマスクで酸素を送り込む処置をしたが、状態は変わらなかった。「やっぱりもう一度挿管しよう!でも、中(小児科ICUのこと)は今いっぱいだから、悪いけどこの部屋で呼吸器使うよ」初期研修時代には気管内挿管がうまくできずに悩んだ経験がある僕であったが、この頃にはもう自信をもってできるようになっていた。気管内挿管、血管確保(点滴)、検査・・・・・一通りの処置が終わり、状態が落ち着くのを見届けて当直室に戻ると、時計は午前4時をまわっていた。

今から寝ると朝のカンファレンスを寝過ごすなあと思いながらも、一旦眠くなってくるともうどうしようもない。いつの間にか眠りこんでいたらしいのだが、またまた電話で現実に引き戻されてしまった。「ちょっと手伝って!」小児科ICU当直医からの依頼であった。こうなってくると、もうトコトン仕事してやるぞと開き直ってくる。なんでも、肺静脈狭窄を伴った下心臓型総肺静脈還流異常の根治手術後で、1ヶ月以上も人工呼吸器による呼吸管理を行っている女の子が急にチアノーゼ発作を起こしたらしいのだ。「PHクライシスだろうね」一段落してから、僕より五年ほど先輩のICU当直医がそう教えてくれた。小児科ICUの窓から外を見ると、新宿の繁華街の向こうにそびえる副都心のビル群が朝日に映えてとても美しかった。その日の午前中、小児科医師待機室は僕のイビキでさぞうるさかったことだろう。

ところで、あの日僕が空港まで迎えに行った赤ちゃんは心室中隔欠損を伴う完全大血管転換であり、当時手術成績が飛躍的に向上していたジャテン手術を行い、元気に鹿児島へ帰って行った。そしてクリスマスが近づいたある夜、テレビで「救急病院24時!心臓病との休みなき闘い」という特集番組が放送された。手術風景、手術前後の子どもの様子、家族の不安、悲しみや喜び、心臓外科医の生活とその家族や看護師の泣き笑い、病院を陰で支える人たちの姿など多くのエピソードが紹介されたが、僕が赤ちゃんを連れて救急車から降りてくる場面は見事にカットされていた・・・・・。その番組を録画したビデオはすぐに重ね撮りしてしまったことは言うまでもない。

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