香川県高松市の小児科・アレルギー科・小児循環器内科 医療法人社団裕心会 あきた小児科クリニック

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心臓病の子ども達と共に

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15.ある転機

どの人にも、人生の進路を大きく変えてしまうような転機が必ず幾度か訪れる。これが自分の転機になるかもしれないと感じる場合もあれば、ずっと後になってからあれが転機になったんだと気づく場合もある。僕の初めての転機は小学校卒業前に突然やってきた。クリスマス前のある日、学校で集めた歳末助け合いの募金をNHKに届けに行く途中での追突事故・・・結局3ヶ月の入院となった。だから僕は小学校卒業前のウキウキした気分をまったく知らないまま卒業した。むち打ち症の後遺症と闘いながら中学校でテニスに熱中しはじめた矢先、今度は腎炎の発病・・・これが長期化して慢性腎炎となり、通常の学校生活ができるまでに数年を要した。この間に出会った医師の影響で、それまでの夢を翻して自分も医師を目指すことになるわけだが、こうしたケガや病気との出会いが、まず初めての、そして大きな転機となったのだ。これらがなければ、僕の進路は確実に変わっていたはずだ。

その後、小児科医として腎臓病専門医を目指すつもりが方向転換して心臓病を志すことになったり、好運にもトップレベルの心臓病専門施設へ勉強に行かせてもらえたり、よい先輩医師や同僚にも恵まれていた。そして医師になって約10年経った頃、ある1つの転機が訪れた。その当時、僕は小児専門病院で心臓疾患と未熟児を中心に診療していた。有名なお寺の近くにあるその病院での勤務は5年ぶりで2度目であったが、以前にも増して小児心臓外科部門が充実し、手術件数も手術成績も目覚ましく向上していた。そのため、忙しさは若い時に研修した大都会の心臓病専門施設にも引けは取らなかった。ポケットベルの電池の消耗も早く、それに比例して疲労の蓄積も早かった。その病院に転勤して1年が過ぎた頃、公私ともにお世話になっている大学小児科の先輩医師から、話があるので一度訪ねて来いという電話をもらった。

さっそく次の日曜日にお邪魔する約束をしたが、乳児期からみせてもらっている拡張型心筋症の女児の調子が急に悪くなったので延期せざるを得なくなった。1歳半になる晴佳ちゃんという女の子で、強心剤、利尿剤の内服薬と血管拡張剤の貼布薬を使用していた。それまでにも数回入院したことがあったが、今回は肺炎をきっかけとして心不全が強くなってきていた。ご両親は20歳そこそこと若かったものの非常に熱心で、歩き始めたばかりの晴佳ちゃんをとても可愛がっていた。お母さんはパートの仕事をしていたが、時にはおばあちゃんたちに協力してもらいながらも、看病と家事と仕事の三役をキチンとこなしていた。さすがに入院時だけは家事も仕事もお休みして晴佳ちゃんにずっと付き添っておられた。利尿剤や血管拡張剤を点滴投与に切り替えた効果で、晴佳ちゃんは次第に落ち着きを取り戻していった。

そして、数日後の祭日を利用して、久しぶりにその先輩医師のお宅を訪れた。10年ほど前の新入医局員歓迎会で初めてお会いした時は海外留学帰りの若い助手であったが、この頃には白髪混じりの小児科助教授になられていた。「いつまで新生児や小児心臓病の専門医として働き続けられると思う?」と彼はいきなり切り出した。「もう大学に戻ってくる気はないんだろ?それに、あと10年や15年経ったら今のような生活を続けていくのは無理だよ。若い医者もドンドン育ってるし、うちの大学の循環器グループも海外留学が盛んになってきた。医者の代わりはいくらでもいるんだよ。それに、2、3年毎の人事異動という奴がある。君は今年何歳になるの?」「38です。」「40歳前後になって子どももドンドン大きくなる。そうなってからでも、まだ人事異動であっちこっち動かされるような身分では困るだろう。奥さんや子どもさんもかわいそうだよ」

大学では通算5年間にわたって小児心臓病の初歩から学位論文の指導までしていただいた上、家族共々お世話になっている先輩医師なので、言おうとしている意味はよく判っていた。大学勤務当時も、『何歳になっても今の状況に満足してしまってはいけない。昨日より今日は新しいものを目指さないと進歩がない』といつも言われたものだ。僕の大学では人事異動のローテーションは通常2年間であり、僕ぐらいの経験年数の医師が長期間一つの病院に勤務し続けられるケースは珍しく、本来なら僕はまた1年後には別の病院へ異動しなければいけないはずであった。この時点で僕は医師になって10年であったが、転勤は既に11回経験しており、結婚後だけでも引越は9回を数えていた。本来ならそろそろ一定の病院に定着したい年齢に差しかかっていたが、今の身分のままではそれはかなわない希望だった。「実は今度、大学の総合科学部の方に健康増進とかスポーツ医学を専門とする教室ができることになってね。教授だけは決まってるんだけど、講師クラスをこれから募集するらしいんだ。今までの仕事から見るとかなり方向転換にはなるけど、たぶんそのうち助教授にもなれるだろうし、うまくいけば教授も夢じゃない。今のところ、教育学部から数人希望があったらしいけど、教室の内容からいえば医学部出身者の方が採用されやすいと思う。臨床医じゃなくなるけどそれなりにやりがいはあるだろうし、人事異動はなくて上のポストも狙える。君の実家の近くだし、ご両親ももうそんなに若くはなかっただろ?君はもう自分だけのことを考えていればよい年齢じゃないよ。この話、考えてみないか」そう言って、先輩医師は応募用の書類一式を渡してくれた。

香川県までの約2時間の間、ハンドルを握りながらあれこれ考えたが、もちろん結論は出なかった。家に帰って家族の顔を見ても答えは見つからなかった。総合科学部のポストに応募して採用されれば自分のポジションは確保され、異動も引越もなく、安定した生活を送れるはずである。ただし、医師免許を持ってはいるものの患者さんを診察したり治療したりする世界とは離れ、健康増進のための講演や教育、研究といったことが仕事となるのだ。臨床医ではなくなる寂しさ、生活や地位の安定、いろいろな要素が絡み合っていて、悩みは深まる一方であった。それでも、募集の締切はあと3週間ほど先に迫ってきていた。

その日から、悩みながら診療に当たる日々が続いた。応募するかしないか、臨床医を捨てるか続けるか、数日たっても考えは五分五分、フィフティ・フィフティであった。そんなさなか、拡張型心筋症の晴佳ちゃんの心不全が再び増悪してしまったのだった。あえぎ呼吸、多呼吸などの呼吸不全の症状も強まったために人工呼吸器が装着され、ICUでの集中治療が始まった。そして、僕もまた病院に泊まり込む日々が続いた。晴佳ちゃんの容態が悪くなってからは、自分の進路についてじっくり考える時間はなく、誰かに相談するような機会も見つからなかった。それから数日後、心臓が治療に反応しなくなってしまった晴佳ちゃんは短い一生を終えたのだった。入院中のほとんどの子どもたちが眠っている時間帯に、泣き疲れて別人のようになったお母さんに抱かれて、晴佳ちゃんは静かに帰っていった。

『もうこんなつらい場面に立ち会う仕事は止めよう』
『治せない病気はいっぱいあるんだから』
『人の生死の現場から離れてみたくはないか』
『病気になってしまってから治そうとするのではなく、病気にならないために頑張る仕事もよさそうじゃないか』
『臨床医なんか誰がやっても同じだろう』
『・・・・・・・・・・』
『・・・・・・・・・・』
『でも自分はなぜ医者を目指した?』
『初めて医者になった時はどんな医者が理想だった?』
『今、そしてこれから、自分が本当にやりたいことは?』

総合科学部の講師募集の締切があと5日ほどに迫った夜、先輩医師のお宅に電話を入れた。「申し訳ありませんが例のお話はお断りすることにしました。」と。「何となくこうなりそうな予感がしてたよ。やっぱり臨床医を捨てられなかったのかな?」と彼は言った。「いえ、捨てられなかったというより、昔の気持ちを思い出しただけです」僕の返事に対して「昨日よりも今日、今日よりも明日だよ。これからも、日々自分を磨いて新しい何かを見つけていかなくちゃ」大学時代に聞き慣れた懐かしいフレーズを返してくれた。

こうして、僕の人生の大きな転機になっていたかもしれない応募書類が陽の目を見ることはなかった。その後、やはり人事異動は避けられずに高松市の総合病院へ転勤した。それからも相変わらずポケットベルやPHSの鳴り続ける忙しい毎日で、毎年の人事異動の名簿にも名前が載ったままの身分ではあったが、これで良かったと思えたし、後悔することはまったくなかった。

一般に医師の転機として多いのは、病院の勤務医をやめて開業したり親の病院を継ぐといったケースである。また、僕の知り合いにも小児科医をやめて内科医や精神科医に転向した者や、医師をやめた者もいる。僕の場合は結局転機とはならなかったが、臨床医をやめる方向に行かなかったこと自体が転機だったのかなと思ったりした。先輩医師が教えてくれたように、昨日よりも今日、今日よりも明日と、日々自分を磨いていける次の転機が見つかる時まで、この病院で走り続けようと思った。

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