香川県高松市の小児科・アレルギー科・小児循環器内科 医療法人社団裕心会 あきた小児科クリニック

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心臓病の子ども達と共に

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12.心筋症の少年たち

僕がその少年たちに初めて出会ったのは、まだ2人が小学生の時であった。

文男君は学校で行った心電図検診で異常が認められたため、当時僕が勤務していた大学病院にやってきた。新しい患者さんが病院に来られた場合は、過去にかかった病気や家族がかった病気の内容を聞かせてもらうが、大学病院のようなところでは、それは主に卒業間もない医師の仕事である。文男君はお母さんに連れられて病院に来たが、家族のエピソードの中に気になる記載があった。叔父さんが小さい頃に原因不明の病気で突然死されていたのだ。この事実と文男君の心電図異常とに関連があるとすれば、叔父さんは重症の不整脈か心筋症だった可能性がある。その日の午後、文男君は心臓超音波検査(心エコー)を受けることになった。

それから2時間後、心エコーの器械の画面に映し出された彼の心臓は、左右の部屋を隔てる心室中隔という壁だけが別の臓器のように分厚く見えた。文男君は肥大型心筋症という病気であった。おそらく叔父さんも同じ病気であったと考えられた。その日のうちに結果がお母さんに知らされ、内服薬が始められた。文男君は運動が大好きな少年であったが、運動はあきらめてもらわざるをえなかった。6年生になって1ヶ月ほど経った頃、修学旅行に行く前に病院に来られて、学校側が自分の旅行参加を渋っているのでなんとか一緒に行けるように診断書を書いて欲しいと言われた時の文男君の姿が、今もつい昨日のことのように思い出される。それからしばらくして僕は大学病院を離れることになったので、彼にはもう何年も会っていないが、順調なら成人して忙しい社会生活を送っているはずである。

もう一人の少年、浩二君に出会った時、彼にはもう既に拡張型心筋症という病名がついていた。お父さんとは死別されていて、お母さんは聴力障害を持っておられために言葉も不自由であった。今でも非常に印象的なのは、僕たちが外来で説明したことを浩二君が一生懸命に手話で通訳する姿であった。

ところが、中学生になった頃から、浩二君には不整脈が見られ始めた。以前から飲んでいる薬の他に不整脈の薬も開始され、運動制限も厳しくなった。そのうちに、自分の心臓の状態を知ってか知らずか、次第に浩二君の生活が荒れ始めたのだ。結局、心臓病の重症度と学校生活の関係から、彼は養護学校のある療養所に入院することになった。その療養所では毎月2回、僕が循環器外来をやっていたので、入院以来僕が浩二君の外来主治医ということになった。入院後も生活態度の方はあまり変わらず、ときどき養護学校の仲間と問題を起こしたり、ハデなケンカをしたりして先生や看護師を悩ませていたが、彼の基本的な性格は多くの人が理解してくれていた。2週間に1回の診察日には祖母が付き添ってきてくれることが多くなったが、時にはお母さんも仕事を休んで来てくれることがあった。そんな時は浩二君も数年前までの純情で素直な浩二君のままで、僕とお母さんの話を手話でつないでくれたりした。しかし、その手話の内容は自分の病状なのだから、決して穏やかな心境ではなかったはずである。3ヶ月に1回ぐらいの割合で心エコー検査も行っていたが、数年前に比べると少しずつ心臓の状態も悪くなってきていた。しかし、こんな話は彼に通訳してもらうわけにもいかず、祖母からお母さんに伝えてもらっていた。いずれにしても、当時は心臓移植も夢の時代であり、薬で頑張ってもらうほかなかった。

そしてある朝、大学病院で仕事中の僕に、療養所の浩二君の主治医から電話が入った。彼が亡くなったという知らせであった。なんでも、たまたま病院から自宅へ外泊していた朝、家族が起こしに行ってみると既に冷たくなっていたとのことだった。前夜までは何も訴えがなかったことを考えると、心不全死というよりやはり不整脈死だったと思われた。今でも目を閉じると、いわゆるイケメンで格好良かった浩二君が、一生懸命に手話を操っている姿が浮かんでくる。最近になって、ようやく移植法案が国会やマスコミの注目を集めているが、彼があともう何年か生きながらえていてくれれば、ひょっとしたら・・・・・と残念でならない。現時点では他に根本的な治療法がないだけに、日本での心臓移植の早期実現が望まれる。今も頑張っているであろう、文男君たちのためにも・・・。

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